【イントロダクション】
その夜、青木秀樹は店の厨房で、一人黙々と無心でメンマを切っていた。もう午前4時をまわっている。この夜が明ければ青木亭草加店のオープン記念セールの初日である。
前日に仕込みを完璧に終わらせ、自宅に帰ってみたものの、どうも落ち着かない。彼の脳裏には不安とやる気が微妙に交錯しながら駆け巡っていた。「お客さんが一人も来なかったらどうしよう?」という気持ちと「そんなことはない。新しい店でも味が美味しければお客さんは来てくれるはずだ」という気持ちが、彼の頭を支配していたのだ。自宅の寝床の中で、勝手に思考が暴走してしまうのを抑えようと暫く四苦八苦したが、終いに疲れてしまった。どうしても眠れないのだ。青木はそんな気持ちを振り払うように、草加店にやってきた。
厨房に入り、電気を点ける。朝から彼の城になる仕事場に光が充満した。彼は、そこでちょっと「ほっとしている」自分を発見した。青木は作業台に両手を置いて、客席を眺めて見た。今日の11時以降は、何人くらいのお客さんで埋まるんだろう。
不安は尽きない。また心がざわついてきた。青木はおもむろにメンマを取り出し、切り始めた。心を落ち着けようと、無心でメンマを切る。その作業は、景色が白み始めるまで続いた。
その日は朝から雨だった。外は肌寒い。7時に朝の仕込みを開始した。修行先からの助っ人とスタッフの江村も緊張の色を隠しきれず、たち働いている。オープンの11時に向けて準備が着々と整い始めた。今日から3日間、店外でお客様の誘導をしてくれる清水たちも合流した。
今日はずっと雨の予報だった。かえってその方が都合が良い、と5人は思った。晴れの日の草加店の前は、道路拡張工事の真っ最中である。たまたま今日は雨なので、工事は中止なのだ。オープン初日から工事中の中で営業をやるのかと思っていた5人は、正直ほっとしていた。
平成10年4月17日午前11時、青木亭草加店の営業開始である。すでに、外には30人くらいのお客様が並んでくれていた。「いらっしゃいませ!」お客様が店内に入る。
今、青木亭の時計は動き出した。
第一幕 青木亭の夜明け
<第一章>
営業初日は、雨で明けた。お客様が次々に来店する中、青木は極度に緊張していた。自分の店のオープン初日なので無理もない事である。当時を振り返るとき、最初の一杯目をメニューは何か、どうやって作ったか、お客様の反応は、等、まったく覚えていないという。青木は極度の緊張のためトランス状態にあったのだ。無我夢中で「お客様に喜ばれたい」「美味しいラーメンを作りたい」という彼の本能だけで、動いていたのである。これは、「初心」と言っても過言ではない。自分の仕事について、クライアントに喜んでもらうというのは、基本中の基本である。喜んでもらい、評価を受け、そして対価をいただくのだ。それは金儲け主義とは一線を画した純粋な顧客主義=奉仕精神である。青木亭の目指す「王道」とは、そういったものである。青木はトランス状態にありながら、その本質を見事に体現していた。
初日に用意した麺は、300玉であった。午後8時にはその300玉が無くなった。オープンセールは通常営業の200円引きの価格帯での営業である。
2日目も3日目も同様の出来だった。彼の直向きな態度がお客様の心を打った結果と、皆が感じていた。
営業4日目、通常営業の初日が始まった。前日までの客足が嘘のように止まった。お客様が来ないのである。11時にオープンしてから12時までの1時間に来たお客様は僅かに1人。昼食時の営業も1回の満席のみで終了、夜に満席になることは1回もなかった。
通常営業初日は120玉で終了した。青木は「こんなものなのか」と思いつつ、この3日間で営業というものを甘く考え始めていた自分を反省した。
この日から、青木亭の挑戦の日々が始まったのだ。
第一幕 青木亭の夜明け
<第二章>
清水純一は本気だった。彼は経営者として、当初の売上実績のボーダーラインを70玉に置いていた。
通常営業初日の一日中、清水はここ数ケ月の準備期間を回想していた。 オープンセールに向けて店内に貼るPOPを、夫婦で何度も失敗しながら妻の手書きで書き上げた。貼り出す位置も色々と考えながら決めていった。「無」から「有」を作り上げるのは並大抵の気力では出来ない。オープンセールの3日間、彼の妻は皿洗いの手伝いで店の厨房に立った。彼も店外で近隣のクレーム処理やお客様の誘導をこなした。お客様が来てくれるかどうか、の不安を打ち消すように夫唱婦随で必死で働いた結果が、3日連続午後8時で300玉完売という結果だった。
その結果を受けての通常営業初日である。オープンセールと通常営業とでは客足に差が出るのは当然である。オープンセールは所謂お披露目、地元の方々からの祝儀のようなものである。お客様のシビアな選択の目は通常価格になってからスタートするのだ。清水はそのシビアな目を知っているからこそ、ボーダーラインを70玉に設定したのだ。彼は、なんとか70玉を越えて欲しいと心から願っていた。
清水のもう一つの生業は運送業である。平成元年に立ち上げた運送会社は10年目を向かえて、経営状態は順調だった。 可もなく不可もなくといった処である。ただ、運送業の経営者として、今以上に会社を躍進させていく戦いを続けることに対して、彼の心の中には幾ばくかの疑問が存在したことも確かである。
そんな中で10年目の1つのチャレンジとして試みたのが、このラーメン業界への参入であった。彼は通常営業の初日が120玉で終了し、同様の玉数が数日間続き、さらに希望的観測抜きでこれからも、なんとかいけそうだとの予測がでた時に、こう考えた。「自分はこれからサイドビジネスではなく、本業としてこのラーメン業界に参画して行きたい。運送会社とこのラーメン屋は一蓮托生なのだ。自分の未来もこのラーメン店とともにある。このラーメン店に未来をかけて見よう」。
清水はすぐに行動に移した。その日から「夜のミーティング」をスタートさせた。営業終了後、店に行き試食と味の調整と掃除をすませた後、会社に集合しミーティングを開始する。店で味の調整を行ったのは実に、ほぼ毎日3ケ月の長きに及んだ。その頃、青木は就寝が朝3時、起床が朝7時で睡眠時間は4時間程度だったが、不思議と疲れは感じなかった。店に関わる全員が同様だった。全員一丸となって、店の輝ける未来を信じ、懸命に考え、そして懸命に行動した。
ミーティングの内容は、毎日「数字を如何にして上げるか?」に終始した。技術の向上は基より声の大きさ、良い接客の仕方など、考えられる全てを考え、次の営業の糧とした。 営業中に問題点を必ず見つけ、ミーティングで改善点を話し合い、実践する。創業当時はかくの如く試行錯誤の連続であった。
清水は、毎日押しつぶされそうな不安感にさいなまれていた。今日はお客様は来てくれたが、明日はどうだろう、明後日は…と、毎日毎日が不安の連続だった。だが、同時に「このラーメン店を必ず繁盛店にする」という決意もあった。
彼は、こうも考えた。「毎日、自分が不安がっていては、自分を信じてついてきてくれているスタッフ全員の志気にも影響がでる。カラ元気でもないよりましだ。自分だけでも全員の不安を打ち消す元気さを持っていよう」と。
第一幕 青木亭の夜明け
<第三章>
夜のミーティングは毎日続いていた。また営業時間中は3時間に1回、青木からの販売状況の連絡を受けながら、清水はその時々で指示できることをすぐに実践させていった。実践の1クールを1週間とし、その結果を受けて、その後の対策を考える事にした。これらの試みは半年以上続いた。店舗のテント看板の内側にあるライトは、創業当時は6本だった。内側からの光が弱いので、店が今ひとつ目立たない。
そこで清水は、ライトを倍以上の14本に増設した。夜以外でも薄暗い日はテントを明るくして営業させた。清水は「数字を上げる」目標に向かって、その手段を一つ一つ考え実践していった。創業当時の少ないお客様を出来るだけ多く見せる事も、お客様を席に誘導することで補った。お客様を店自体に誘導する、所謂営業活動も積極的に行った。まず、友人・知人に声をかけ店に来てもらった。友人たちには出来るだけ店の評価をしてもらい、それらの意見に耳を傾けた。聞く耳を持って意見を聞いたのだ。指摘された意見は、素直に聞き入れ改善していった。スープのぬるさなど、すぐに直せるものはその場で直させた。
また、清水は本気であるがゆえに、スタッフには超スパルタで接した。スタッフたちも明日の自分の成長を信じて、彼についていった。
さらに、スタッフ教育にも時間を惜しまなかった。1ケ月に1回、全員での食事会を毎月開催した。繁盛店に行き、店の雰囲気やサービスの仕方など、吸収できるものは全て吸収するという貪欲な意気込みの食事会であった。
当時は、石橋をたたいて渡る暇は無かった。「思いついたものはとりあえずやってみる」精神で結果を一つ一つ出して行った。
ただ、人繰りは順風満帆とはいかなかった。清水はラーメン店も運送業も両方を本業と捉えていた。動き出した船を止めるわけにはいかない。運送会社のためにもラーメン店を人繰りで頓挫させるわけにはいかなかった。清水は、運送会社からラーメン店への大量動員を決意した。
清水の、時には厳しく、時にはやさしくの緩急織り交ぜた人身掌握術は、次第に人繰りでもうまく回り始めた。
創業以来、スタッフ全員が懸命にそして必死に頑張って半年がたったころ、ふと気がつくと店は「行列の出来る店」の仲間入りを果たしていた。コスチュームも白衣からサムイに変更し、独自のカラーを打ち出す準備が整った。
全くの「無」から「有」は立ち上がった。これから、更なる繁盛店へと階段を昇っていく青木亭の新たな戦いが始まるのだ。